太平洋に浮かぶ孤島ハワイ。人々の身近に存在し海の素晴らしさから怖さまで何でも教えてくれる素朴な男達は“Waterman(ウォーターマン)”と呼ばれ尊敬されています。彼らは祖先がかつて渡ってきたタヒチへの海の道をめざし、民族の歴史を辿る航海を成功させ自らのアイデンティティを取り戻しました。一方、かつて大正から昭和にかけてサバニを駆使し、太平洋からインド洋に及ぶ広大な海 を漁場として掛けめぐった沖縄・糸満(いとまん)の漁撈がいました。海と共に生きる為の知恵と体力を持ち、水平線の彼方へ旅する男達の勇敢な姿をみた周囲の人々は、彼らに希望と夢を託し敬意を込めて海人(ウミンチュ)と呼びました。 同じ島国である日本とハワイにおいてその呼び名の意味は変わりませんが、サーフィンやパドリングに代表されるオーシャンスポーツで活躍するようになったウォーターマン達の一方で、ワールドワイドな海人の能力は戦後の経済発展に伴う漁船の進化のために徐々に失われてきました。小さな舟で、大海原を進んだ先人たち。彼らにとって地球は国境も人種もない世界でした。先人たちの勇気と知恵やオリジナリティー溢れる工作技術。昔の人々は海に生きる場合も、山に生きる場合も土着の知恵や道具を豊かに持っていたのです。 世界最初の大航海時代、紀元前3500年頃に中国南東部を起源とするモンゴロイドが台湾、沖縄地方、そしてはるかポリネシア圏へと旅立ったことを考えると、つい30年前ほどまで沖縄周辺の海に繰り出していった琉球の海の民に、日本人に刻まれた縄文時代から綿々と続く海洋民族としての気質や誇り高き勇気に、長い歴史の繋がりを感じてやみません。
昼夜問わず仕事に終われる現代人は、便利になりすぎた都会生活で健康に対する価値感が薄れています。その結果自らの健康だけでなく本来人間が持っている五感の力さえも衰え、やがて山や海の自然に対する敬意も失っていきます。自分は毎回外洋の荒波の中で揉まれながら、海という自然のフィールドで戦ってきた10年間のアスリート生活を通じて学んだ事。それは人間が自然に対しいかに無力な生き物かということを痛感したとき、勝敗以外の価値観を見直すことができるということでした。勝ち負けを競う以外で我々が守っていかなければいけない新たな価値を海に対して持つようになりました。そして戦う事以外で海からのメッセージを表現できることはないかと模索し過去2回のエクスペディション(朝鮮海峡をパドルボード、アウトリガーカヌーで漕破)を通じて海に生きる自分の能力へ挑戦しました。 そして2004年という新しい年を迎えた今。自分は、地球の生態系のなかで最も進化した我々人間が“生きる為の知恵”として便利さを追求し繁栄を遂げてきたことを痛感しています。近代化が進むこの激動の時代がますます混沌としてきているなか、一方通行な情報によって世界中の紛争や抗争のニュースが伝わる中で、自分を見失うことなく冷静に、そして原点に立ち返って時代を見極めるのはたいへん困難です。発展し続けることだけが人類の幸せなのでしょうか。人間だけが急ぎすぎる時間、もっと地球時間、宇宙時間で生きていきたいと願っています。 そういう背景で失われようとしている沖縄海人のサバニ帆漕能力を現代に甦らせ、日本発祥と言われる“カヌー(舟)”の語源を辿りながら、古人が時間をかけて旅した黒潮の軌跡を追う航海を決心し、今仲間を集めています。 優れた海洋民族が生まれた日本国の誇りと、自らの価値観をもう一度ゆっくりと見直し、心を取り戻すことで海を通じて地球が訴える大切な想いを感じてほしいと思います。今年の夏、祖先から脈々と受け継がれた命の手綱をもう一度握り締め、地球と人間が互いに共存していく社会に向かう航海。この貴重な冒険を通じて、自分が見た世界や感じた思いを、子供から大人まで多くの人に伝え後世に残していくことが、我々が行動できる第一歩だと信じています。
海人EXPEDITION 『サバニ帆漕航海2005』 実行委員長 海人丸 キャプテン 荒木 汰久治
本州南岸を流れる黒潮はその蛇行の形状によりいくつかの型(図参照)にわけられる。海洋速報・海流推測図ではこのうちA,B,C,D,N型で黒潮を表現しています。
海上保安庁海洋情報部に常設されている海洋情報提供の窓口。海洋の研究者、海洋の仕事に携わる方々だけでなく海洋レジャーを楽しもうとする方など海に関心がある方々が利用できる。水温や海・潮流、潮汐、水深などの海洋の基礎的データ、海図や水路誌等の海洋情報部刊行物、国内外海洋関係機関の各種文献・図面等についての閲覧、情報源の紹介のほか、潮干狩り、ヨット・モーターボートなどの海洋レジャーに必要な情報の提供や海に関する様々な質問についてもお応えするなど多様なサービスを行っており、電話、手紙などによる利用も受け付けている。 なお、文献・図面等の貸出は行っていない。 閲覧サービス:文献・図面の閲覧は、開架方式となっているので書庫に収納している古い資料を除いては自由に閲覧ができます。閲覧できる文献・図面には次のようなものがあります。国内外の海洋関係機関から収集した各種海洋データおよびその統計値、水温分布、海流分布等を表した海洋環境図等、国内外の海洋調査機関、大学・研究機関の調査報告書、データ集、紀要等。日本および外国主要水路機関発行の海図、水路誌等の水路図誌等。
東京五輪ではサバニを参考に設計した日本チームのボートが好成績を収め、ミーカガンはシドニー五輪でも世界トップアスリートが愛用。まさに「糸満」の技術が世界を駆け巡っている。ゴーグルの原形であるミーカガン(水中眼鏡)等の漁具文化を伝える「海人工房」の上原健(60)さん、上原さんの父・新太郎さんは漁先のシンガポールにてサメに足をかまれてやむなく帰国。船大工としてナンショウハギを使ったサバニの考案者としてサイパンで活躍した。『漁船の大型化で漁獲量が伸びた半面、漁場は沿岸から近海、遠洋へどんどん遠ざかる。百年以上も沖縄の海で主役を努めたサバニが姿を消す日も近い。伝統の漁法と船を次世代に伝えたい。』と今回のエクスペディションで使用するサバニ借用と道具関係のアドバイザーを引き受ける。
沖縄を彩る漁撈文化のひとつであるサバニ。その遙かに優れた操作性と耐波性、そして敏捷さを備え持ち強く生きた海民が誇る造船文化の結晶といえる。流麗な曲線の流れと端麗に絞られてゆく側面そして杉材の木目。その創造的な形とサメの肝臓油を塗った深いたたずみは驚く程美しい。遠く14世紀から16世紀中期までさかのぼる事ができる。元来、松を使った刳舟(くりふね)だったといわれるサバニは、のちに軽くて丈夫な宮崎杉の板舟を経てプラスチックへと素材を変え活躍した。だが戦後の漁船テクノロジー発達という時代の流れによって今日ではほとんど使われなくなり、そのほとんどが港の隅で影を潜めてしまっている。鹿児島南方の諸島、奄美諸島にも同様の舟があったが今ではその姿さえなくなってしまった。アウトリガー(舟と平行して作られる支木)がなく単舟で丸木舟(マルキンニ)から発展したので風や浪のため転覆する場合があるが、たとえ転覆しても南海は水温が高く、鮫の危険はあったとしても、船底部がくりふね構造なので重くなっており復原が比較的容易にできる。その語源については、セブニ(瀬舟)、スブニ(素舟)、サブニ(小舟)など、「サバニ」が使われた水域、形、大きさなどから訛ったものであるという説と、糸満では鱶をサバといい、鯖漁に使う舟だから「サバブニ」それが「サバニ」となったという説とがあるが確証はない。
(白川勝彦『サバニ』より/上の写真は白川氏が古来の方法で作成した1/5モデル)
海に出て台湾坊主(この地方特有のいちばん恐れられている突発性暴風雨)に出会うと、サバニを沈ませへりにつかまって嵐のすぎるのを待ったという。また、舟に揚げられないほどの巨大なカジキを釣り上げれば、一度舟を沈めて獲物をのせ、水を汲み出して舟を浮かせた。 また体力や漁法だけでなくミーカガン(水中めがね)、ユートゥイ(あかくみ)をはじめ、機能美に溢れた独創的な海の小道具とムロアミを駆使し“追い込み漁”を考案。その独特な漁法とまるで陸を歩くようにしなやかな潜水技術が南洋各地に与えた影響は大変大きく、今日でも「ムロアミ」の名と共に、ポリネシア〜ミクロネシアの島々でその漁法は根付いている。ウミンチュは伝統を大切にする人たちで、古い風習が今でも色濃く残っている。特に行事は昔からの慣習通り必ず旧暦に行う。他市町村のイベント化した祭りとは明らかに違っていて、休日にイベントを合わせるようなことは絶対しない。特に一年間の大漁を祈願する旧正月は盛大だ。
座間味島の古座間味浜から那覇市の波の上ビーチまでの約46キロを、帆掛けサバニで競い合う「サバニ帆走レース」の主催者・帆掛け(ふうかき)サバニ保存会(会長・翁長雄志那覇市長)が2002年のMJCマリン賞(マリンジャーナリスト会議主催)を受賞する。8日に開幕する東京国際ボートショーで表彰式が行われる。同賞は、マリンスポーツやレジャー分野で活動し顕著な実績を残した個人、団体に贈られるもので、昨年開かれたマリンジャーナリスト会議で同賞の文化・環境部門に選ばれた。サバニ帆走レースは、近年ほとんど見られなくなった沖縄伝統の「帆掛けサバニ」を復元し、若者たちに伝統的技術を継承しようというもので、2年前から開催。世界に誇るべき日本の海洋文化、ウミンチュ(漁民)の伝統を復活させようとする努力が認められた。 同保存会は、古いサバニを整備し、電柱の廃材などをマストに利用、セール(帆)も製作した。昨年のレースには、座間味島や阿嘉島の小学生グループから社会人まで18チーム、約180人が参加。美しいサンゴとマリンブルーの座間味海峡を帆走した。
西表島西部の各地区でゴールデンウイークの期間中、5月5日のこどもの日にちなんでさまざまなイベントが催された。 このうち干立子ども会はサバニによる川下りを行った。 たくましく育つようにという願いをこめて毎年行っているこの行事には、干立子ども会と帰省していた干立出身者の子どもたちが参加。浦内川上流の軍艦石から浦内橋近くまでの約8キロメートルをサバニを漕いで下った。お年寄りなど多数の地域住民も応援に駆けつけ、伴走船から盛大な声援を送って激励。子どもたちもこれにこたえて、一度も交代することなく完漕した。
サバニをこいで石垣−竹富間を往復する「漕(こ)ぎだせ 海原へ」(石垣少年自然の家主催)が12日、行われ、市内の3中学校から合わせて35人が参加した。生徒たちは、サンゴ礁の海を楽しみながら、往復1時間半余りの航海を漕ぎきった。体を鍛えながら、八重山の海の素晴らしさや雄大さを体験することを目的に92年度から毎年実施されている恒例行事。今回は石垣中生徒会と石垣第二中ハンドボール部、白保中バレーボール部の3チームが参加。生徒たちは11日にサバニをこぐ練習をしてから、12日の航海に臨んだ。 保護者らの見送りを受けて、浜崎町船着き場を出発した生徒たちは、先を争いながら快調に飛ばした。往路の海は穏やかで、天候もまずまずだった。午後の復路は、波が出てきたものの、海底に広がるサンゴ礁を眺める余裕も出て、生徒たちは楽しみながらサバニを漕いだ。
縄文人と言うと山の民で、これまで狩の獲物を追っかけていたと言うイメージが強調されてきたが、実際の縄文人は「海の民」つまり海洋民族と呼べるほど海洋との関わり合いが深い文化を備えていた。海産物を中心の食生活、入れ墨の風習に加え、邪馬台国の記述「魏志倭人伝」において「好んで魚やあわびを捕え、水は深くても浅くても皆潜ってとる・倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕え、体に入れ墨して大魚や水鳥の危害を払う」という倭人の記録から縄文時代から伝わる倭人の生活をうかがい知る事が出来る。
縄文人がアメリカ大陸にまで到達していたとして、どのような手段を使い到達できたのであろうか。古代人にとって海は障壁ではなく、移動の為の最も重要なルートだったのだ。太平洋の真ん中にまで進出するほどの、航海術を持った縄文人にとって、極寒の地上を何年もかけアメリカ大陸に移住するより、海上を船で移動した方が遥かに安全で簡単だった。 更に日本付近からは黒潮として知られる強い海流が、まるで海のハイウェイのようにアメリカ大陸に向かい流れている。黒潮に乗った場合カナダ南部からアメリカ西海岸に上陸できる可能性がある。 北太平洋の海流は、大雑把に見て時計回りに流れていると言う。つまり、黒潮は日本付近を北上後、北太平洋海流となり東進し、アメリカ西海岸に沿って南下するカリフォルニア海流となり、やがて赤道手前でアメリカ大陸から離れていく北赤道海流になる。そうすると、海流に乗る限り一見、カリフォルニア以南にはたどり着けないように思われる。しかし、海流の本流が赤道手前でアメリカ大陸から離れ西進するとき、そのすぐ南側北緯5度付近には北赤道海流とは反対側に東進する赤道反流が生ずるのだ。つまり、カリフォルニア海流に乗って南下した場合、海流の本流が大陸より離反するところで、赤道反流に乗り移る事も可能である。首尾よく赤道反流に乗り移った場合、次に陸地にぶつかる所が、バルディビア土器の発見されたエクアドルあたりの海岸になる。つまり、縄文人の痕跡が残された場所は、船による航海でたどり着きやすい場所とも言える。西洋人の大航海以前コロンブスのアメリカ大陸発見以前に黒潮の暖かい海を船で横断しアメリカ大陸に達していた事は現在世界中の研究者によって証明されている。
カヌーの語源は比較的に新しい用語と言って良い。15世紀後半、カリブ海のアラワク諸島にいたコロンブスが書いた文書の中で使われたアラワク語が元になっている。その文書記録を見るニューラテン語ではカノアcanoa またはカノーcanowと書かれていた。従って、スペイン語やポルトガル語、イタリア語は現在でもカノアcanoa と言い表し、フランス語ではカノーcanot 、オランダ語でもカノーkanoである。そしてカヌーcanoe という英語に繋がる。唯一の例外として、ドイツ語だけが英語と同じ発音のカヌーkanuなのだ。 『古事記』と『日本書紀』の記事の意味、浮上するのが日本の伊豆下田であるとは言う。「“古事記”にて「いと速く行く船なりき。時にその船をなづけて枯野という」とかかれており、国文学では「枯野」はカラヌと読むがカレノと読めるし、カルノとも読めるし、カノーと読めないこともない。」と言う。 また別の記事、『日本書紀』の応神天皇五年の条には「冬十月に伊豆国に命じて船を作らせた」とあり(その船を軽野というという記載が後ろに続く)伊豆国で船を作ったという。これもカラヌと読まれている。もちろん、以下同文の趣旨でカレノ、カルノと読める、カノーとも読める。いずれにしろ、「船=枯野=軽野」とされ、カヌーの語源としては世界最古、最も順当な史料として挙げられる。そうすると、日本の場合、早くも古代に流入して「野」という文字になったと考えられなくもない。『古事記』『日本書紀』の軽野という文字は、カヌーの語源を探る上で、それだけ重要な意味を持っているのである。『記紀』の枯野も軽野も、単なる船名ではなく、『軽く走る船』という意味を持たせた、日梵合成語と解釈すべきではないか」ということなのだ。日本語が語源になっており、そのルーツは奇しくも伊豆にあったのだ。となると、カヌーの語源は古代日本にあったということではないのか?また、カルノ、カレノの「ノ」という音はサンスクリット語のノウNOV ではないかという説もある。NOV は、それ自体で船を意味する。スペイン語のナオNAO は英語でいうshipであり、変化語のNAV はポルトガル語でも同じである。フランス語でもナブNAVEは船を意味している。これが英語にいうNAUTICAL(航海の)、NAVAL (海軍の)に展開して行く。
日本各地に枯野とか、軽野、狩野、刈野などの地名が残されている。南伊豆町の弓ケ浜に注ぐ青野川中流にある下加茂温泉(京都の上加茂、下加茂と似た地形と地名がある)の近くに地図帳には記載されないが、土地の人は昔から呼び慣れている地名「加納(カノー)」がある。至るところにカヌーの原木となるクスの古木が立ち並び、その上流・支流の至るところに「野」の付く地名が多い。青野、川合野、上小野、下小野、岩殿(いわと・の)、毛倉野、蝶ケ野などである。いずれもそれぞれの「野」、つまり、船を意味しており、用材の伐り出し、加工をした跡といわれる。加納はそれらの用材を集め、船を作った造船所のあったところ。一旦作られた船は「塞き止め放流方式」で下流に下ろし弓ケ浜に出た。また青野川付近には三島神社があり付近に造船所の後が発見された。神社の境内と裏山にはクスの古木が天を突くが如く勢いで枝を広げて立っている。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には壇ノ浦の源平合戦で使われた戦船を作る釘としてこの鉄が使われたと記されている。のちの鎌倉幕府に加盟した村田海人もまた紀伊の藤次郎同様にこの地方の有力な海の豪族だった。そこの裏山に登れば四方を見渡すことができ海賊の根拠地であったとも言われている。
面積約500平方キロメートル、周囲約130キロメートルの太平洋に浮かぶ島、屋久島。標高約2,000メートルの高山を擁するこの島は、亜熱帯から冷温帯までの気候を持ち、さまざまな生き物の共存する自然がある。 屋久島を海上からながめると海の中に急峻な山が切り立っているように見える。まるで人の住むことのできない秘境の島のような印象を受けるが、縄文時代の遺跡が島内に残されていることからもわかるように、数千年前からこの島には人々の暮らしがあった。 屋久島の土地の9割以上は山地である。人々は、海岸沿いのわずかな平地で暮らしを営んできた。当然、農地の面積は少なく、隣の種子島とは異なり、弥生時代より稲作はあまり盛んではない。人々の耕作する作物はカライモ(サツマイモ)やサトウキビ、薬草類であった。またこの島では、漁業も重要な産業である。今ではエンジン付きの漁船が利用されているが、その昔は木造船で海に漕ぎ出し、日々の糧を得ていた。おもな漁獲はトビウオ、カツオ、サバなどであった。特にトビウオ漁は盛んで、春、産卵のために沿岸にトビウオの群れが来ると、5丁の櫓のついた薩摩船で各漁村より一斉に漕ぎ出し、網をめぐらしてトビウオを獲ったのである。 縄文人と言うと山の民で、これまで狩の獲物を追っかけていたと言うイメージが強調されてきたが、実際の縄文人は「海の民」つまり海洋民族と呼べるほど海洋との関わり合いが深い文化を備えていた。海産物を中心の食生活、入れ墨の風習に加え、邪馬台国の記述「魏志倭人伝」において「好んで魚やあわびを捕え、水は深くても浅くても皆潜ってとる・倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕え、体に入れ墨して大魚や水鳥の危害を払う」という倭人の記録から縄文時代から伝わる倭人の生活をうかがい知る事が出来る。
屋久島の植物の代表的存在と言えば、やはり杉、屋久杉である。しかしこの島の杉がすべて屋久杉であるわけではない。樹齢1,000年以上の杉を屋久杉と言い、それ以下は小杉と言う。縄文杉が名高いが、この項では、縄文杉に注目するのでなく、白谷雲水峡で、屋久杉の珍しい植生に注目してみた。 屋久島の表玄関宮之浦より白谷川沿いに山道を登ってゆくと、白谷雲水峡がある。山道沿いに弥生杉、二代杉、三本足杉、奉行杉など、名高い杉が顔を出す。この付近の屋久杉は、幹の高い部分まで苔にびっしりと覆われているのが特長だ。杉ばかりでない、他の樹や岩も覆われている。なぜ、こんなにも多いのだろうか?白谷雲水峡は、霧雲帯と言って常に霧のかかっている場所にある。つまり、いつも高い湿度が保たれているわけで、そうした環境が成長を促進させるのである。そしてこの苔が杉の表皮を守ってもいる。苔とはいっても、通常人家のまわりで見るものとは異なる。近くに寄って見ると、樹の間から漏れてくる日の光を受けて輝き、とても美しい。まさに緑のビロードに覆われた森である。
足摺岬は足摺半島の突端にある四国最南端の岬。標高433mの白皇山を中心とする、花崗岩台地が沈降と隆起をくりかえし、長い歳月をかけてできたもの。高さ80mにおよぶ断崖絶壁は、思わず飲み込まれてしまいそうなほどの迫力です。足摺岬の断崖にたつ白亜の灯台。ついつい荒々しさだけが強調されがちな岬にあって、その存在感はとても新鮮です。激しい雨や風に堪え忍んでいるというよりも、私には、岸壁にぶつかっては砕け散る白波を、やさしく見守っている母親のようにさえ感じる。
広い大海原に目を向けた日本初の国際人ジョン万次郎。14歳の時に漁に出て遭難し、アメリカの捕鯨船に助けられてハワイ、アメリカ本土で10年間修行。その間、持ち前の好奇心と優れた才能で、さまざまな知識を習得。帰国後は、英語、航海、捕鯨、測量の分野で「新知識」を発揮。勝海舟の咸臨丸に乗り込み、太平洋を横断したエピソードと波乱に満ちた生涯はあまりにも有名で、ハワイでは通称ジョン・マンと呼ばれ今も英雄である。
足摺半島先端近くの海岸段丘の一角に、縄文時代早期(BC7000年頃)から弥生時代にかけての石器や土器片が数多く出土し、世界一の規模といわれる唐人駄馬遺跡のストーンサークル、高さ6〜7mもある巨石の林立する唐人石がある。地域一帯の山中約1500ha、250ヶ所以上の巨石群が確認され、特に日本唯一黒潮が接岸する「うすばえ」から白皇山頂、足摺岬突端まで約6kmと海岸線の間に「磐座・磐境」(いわぐら・いわさか)が連なる世界的規模のもの。(足摺縄文巨石文化研究会 より)
竜宮神社は漁の神様です男達を漁に出すと女房達はごちそうを提げて竜宮神社に行きます。そこで着物の裾をからげ赤い衣巻を沖に見せて踊るのです。そうすると漁の神様は喜んで、大漁させてくれるそうです。『♪大漁、大漁が三年続きや。かかの衣巻もひぢりめん♪』と鰹節製造の作業唄として今も唄い継がれている。
明神神社が祭られている明神岬にある古代港跡。昔近くにはいくつもの鰹節工場があった。日本で一番近くに黒潮が接岸するといわれているこの辺りは、紀州との交流が盛んにおこなわれ鰹節が伝えられた。この辺りに立つと今と昔が一緒になりとてもとても不思議な気持ちになるという。
足摺岬は、熊野と並んで補陀落(ふだらく)信仰の聖地だった。梵語のPotarakaは観世音菩薩の住む世界で、海の彼方、インドの海岸にあるとされた。この補陀落をめざして小舟で海を渡ろう。中世の人たちはそんな試みを繰り返したと言われる。
古座川の月の瀬という村に少女峰という高い峰がそびえている。村の人は十七夜岳とも呼んでいる。 昔、月の瀬におふじと呼ぶ娘がいた。おふじは顔かたちが美しいうえに気立てがやさしいので近隣はもとより、遠い土地の若者たちもみんなおふじを嫁にほしいと思っていた。それで毎日のように大勢の若者たちがおふじの家を訪ねて来て、ほしいと頼んだが、おふじはどこへも嫁にゆかなかった。その頃月の瀬から4キロメートルほど離れた重畳山という山の神王寺というお寺に美しい旅の修行僧が泊まっていた。おふじはいつかこの美しい修行僧を慕っていた。おふじは十七だった。古座の沖にくろ島という島があって、海賊の頭、藤四郎は大勢の手下を連れて海上を暴れ回っていた。樫野崎の沖や串本海峡を通る船を襲って船を奪ったり、積み荷を奪ったり、時には上陸して、民家を荒すこともあった。この藤四郎がおふじの美しいのに目をつけ、おふじを自分の妻にしたいと思って、ある日大勢の手下を連れて、おふじの家へやってきた。そして無理におふじを島へ連れてゆこうとした。おふじは藤四郎を嫌って重畳山さして逃げようとした。 けれども弱い十七の乙女の足はどうすることもできない。かさね山へ行き着かないうちに藤四郎に追いつめられてしまった。逃げ場を失ったおふじは高い峰の上からひと思いに古座川の淵へとびおりて死んでしまった。 少女峰のすそには毎年夏の始めに赤いさつきの花が咲いて青い淵に影を映している。それはおふじの化身だという。 村人たちは毎月十七日の月の美しい夜、少女峰の下の川原に出ておふじのために線香をあげて供養するという。
那智の滝からの流れが注ぎ込む那智湾。かつて、この海の彼方(かなた)に浄土があるとの信仰を抱いて粗末な小舟で漕ぎ出し、帰らない僧たちがいた。日本においては南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指し黒潮に乗って船出する「補陀落(ふだらく)渡海」と呼ばれる「行」だった。「補陀落」とはサンスクリット語で、観音菩薩が住む浄土を意味する。小舟には4つの鳥居が四方に向けて立てられ、その中央の小部屋に僧が入る。舟は沖まで曳航(えいこう)され、そこで綱が切られると、二度と帰ってくることはない。命を代償に浄土に行く捨て身の行だった。船のしつらえや渡海の方法などは時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身を南海にて観音に捧げる捨身行だった。寺の裏には渡海した僧たちの墓が残されており、墓碑には「勅賜補陀落渡海○○上人」と記されている。渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に乗りこみます。渡海僧が船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように扉には外から釘が打ちつけられたそうです。渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかでかすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのだろう。平安から鎌倉までは本気で補陀落往生を求めて渡海していたようですが、室町時代以降、儀式化したようで、補陀洛山寺の住職は60歳くらいになると、渡海する習わしになっていたようです。その年を過ぎても渡海しない場合は信者に後ろ指を指されたといいます。 そのきっかけとなったと伝えられるのが次に述べる事件。戦国時代のこと。金光坊という僧が船出したものの、途中で命が惜しくなり、屋形を破り、船から逃げだして、小島に上がってしまった。役人はこれを認めることができず、金光坊を海に突き落として殺してしまった。そういう凄惨な話が伝えられています。この事件がきっかけとなり、生者の補陀落渡海はなくなったそうです。現在、那智浦沖には金光坊(こんこぶ)島と呼ばれている小島があります。補陀落渡海をした人物として、『平家物語』には平重盛の嫡男 平維盛の話があり、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には鎌倉武士 下河辺行秀(しもかわべゆきひで)の話があります。下河辺行秀は源頼朝の家臣。下野(しもつけ)の国の那須野で頼朝が狩りを催したとき、勢子に追われて、大きな鹿が1頭、飛び出してきた。そこで、行秀が命じられ、矢を射たが、鹿には当たらなかった。逃げる鹿を別の人間が射、見事、射当てた。行秀はこの恥辱に耐えかね、その場を逐電、行方知らずとなった。それからしばらくして、行秀が熊野で法華経を読んでいるとの噂が立つ。 そして、行秀が那智の浜から補陀落渡海を行ったとの書状が鎌倉に届いた。補陀落山寺は、仁徳天皇の時代にインドから漂着した裸形上人によって開かれたと伝えられ、また、天福年間(1233〜34)に智定房が開いたとも伝えられています。 智定房は行秀の法名。行秀の補陀落渡海が世に与えたインパクトからこのような伝承が生まれたのでしょうか。 加藤隆久 編『熊野三山信仰事典』戎光祥出版 梅原猛『日本の原郷』新潮社 高野澄『熊野三山・七つの謎』祥伝社 ノン・ポシェット 宇治谷孟『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫
那智の大滝で、熊野那智大社の別宮である飛瀧(ひろう)神社の御神体になっている。役行者が山岳修行の場としていたことから、多くの修験者や参詣者が訪れるようになった。 高さ133メートル、幅13メートル、滝壺の深さ10メートルという壮大な滝で、その姿は太平洋からでも見ることができる。こういった滝や山など自然のものを崇拝する考え方は、日本古来からある原始信仰の流れを受け継ぐものであり、日本各地でも見られる。実際間近で滝を見てみると、その穏やかで優美な姿に思わず見とれてしまう。かなりの落差があるため、岩肌を下る水の流れがとてもゆっくりと気高く見える。昔の人がこの滝を崇めた気持ちがよく分かる。 命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大滝」を、この地方に住む原住民のは古代からこの大滝を「神」としてあがめ、そこに、国づくりの神である「大己貴命」(大国主命)をまつり、また、親神である「夫須美神」(伊弉冉尊)をおまつりしていた。千古の老木におおわれた原生林のあいだに光り輝く「那智大滝」の神秘性はいまも昔もかわることのない姿だ。